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伊瑳谷 門取 Isaya Mondori
プロフィール 大切にしていること
有限会社児雷也 代表取締役
http://www.jiraiya.co.jp/

創作舞踊家、振付・演出家
http://www.jiraiya.co.jp/mondori/
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一生懸命頑張っていたら、人にはみんなやるべきこと、やらねばならないことが見えてくる。様々なもの、人との出会いが己を爆発させてくれる。そんなときに、自分でも思ってもみなかったようなことが出来たりするんだよ。可能になったりする。そのためには、日々考えて自分自身を鍛えていることは大切。その出会いに備えてね。世の中捨てたもんじゃないし、人生ってとっても楽しい!
 きっと、貴方にしかない人生を送らせてくれる出会いがあるから、大丈夫。
何事も、やり続けて!あきらめたらアカン!!!!!!!!!
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取材記事
 
はじめに 外に飛び出した伝統芸能〜舞人 伊瑳谷門取〜
伊瑳谷門取(いさやもんどり)氏は独自の舞踊スタイルを追求、現在、創作舞踊家また振付・演出家として活動を続けています。
プロの太鼓組織「打打打団天鼓」と日本舞踊のセッションで海外で数多くの実績を残しています。
 
ステップアップ1 自由気ままな青年
1948年広島県にて、5人兄弟の3男として生まれました。
高校入学直後、当時にして人生最大の失恋をしてしまい、家を飛び出し、島根や鳥取で工事現場を転々と暮らしていました。
そこで働いたり働かなかったり自由気ままに過ごしている時、当時流行っていた曲と自分自身の気持ちが重なり、失恋を忘れたい気持ちでいっぱいで、温泉街のスナックでひとりギターを弾くようになったんです。
そうやってギターの弾き語りをしていると、大阪から来たという人に声をかけられました。
「君が今自由なら大阪に来て、いろいろと見てみないか?」
それが日本舞踊の師匠で、その時師匠は芸能を強く勧めることはなく、ただいろいろな世界を見ないかというものだったので、その誘いに乗り、大阪の師匠の家で生活するようになりました。
 
ステップアップ2 芸能の世界
大阪の師匠の家では、舞踊の稽古もしていて、毎日三味線の音が耳に入ってくる様な環境でした。
そんなある日、初めて師匠がレッスンを開いている部屋をのぞき見た時に「藤娘」という舞踊をしていました。
そのエネルギッシュさが、自分の持っていた舞踊の悠々としたイベージとのギャップに驚いたのを覚えています。
そんなある時、稽古している生徒さん達が踊りを覚えられず困惑している場面に出会いました。
それまで踊ったことはなかったのですが、毎回見ていたので試しに踊ってみたんです。
すると意外にも踊ることができて“自分でも案外簡単に舞踊できるんじゃないか?”と思う様なこともありました。
実際、自分ではそれが普通だと思っていたんですが、周りは僕を見て相当驚いていたようです。
そうこうしているうちに周りから僕に対する期待が大きくなり、舞踊を舞う様々な機会を与えて貰えるようになっていったんです。
しかし実際は、自分の中では一生この芸能の世界で生きていくという覚悟はまだなく、舞踊の芸名を貰うことも全く考えていませんでした。
 
ターニングポイント1 万博で踊った踊り
1970年には大阪万博で師匠と共に踊りを作り舞うという大役を任されます。
まだ若く多くの兄弟子も周りにいる中で選ばれ、周りからは、妬みなどの目がとても辛かった。
様々な嫌がらせもあった中で辛い日々を送ります。
そして、遂に発表の場。
師匠と万博で舞をやり遂げた時、師匠から「ようやったな。 」と一言を貰いました。
この時、何とも言えない感情が自分の心の中で一杯になり、涙が溢れてきました。
この涙は昔の失恋の時の涙とは違うんだと思うことができ、”自分が何かをすることで周りが喜んでくれる”という喜びを知った経験になる。 この出来事が今の芸能人生まで生きてきています。
そして、この時、“一生芸能で生きていこう!”と決意します。
 
ターニングポイント2 自分の想いとのズレ
1980年、流派の方向性のずれを感じ、師匠とともに花柳流を脱退します。
そして、飛鳥峯盛という名へ。
この頃から振付・演出家としての仕事も手がけるようになります。と、同時に古代舞踊の歴史研究を始めました。
そして、そうやっていろいろなことを知っていき、自分自身の舞踊に対する想が確立していきます。
そうしているうちに、自身の舞踊観と日本舞踊界の見識とのズレを感じるようになり、1985年、苦悩の末長年の師匠の元を離れ、舞踊の世界では名無しになってしまいます。
実際名前があるのと無いのでは天と地ほどの違いがあります。
そうやって飛び出したものの自分の想いを実現することが難しく、自分の姿を見るのも嫌で鏡を二枚割ってしまうほど荒れていたこともありました。
 
ターニングポイント3 踊りは人間に欠かせないもの〜独自の流派へ〜
この頃から日本の舞踊のルーツを探るうち、踊りが人間が生きていくのに欠かせないものだと思うようになりました。
古い舞踊の歴史を見ると、人間は不安になった時狩りに行くときなどどんな時でも踊っていて、全力で舞うことが人間には必要なのです。
ここで自分のルーツを発見できたように思います。
 
ターニングポイント4 打打打団天鼓
1985年、ひょんなことから奥さんと共に近所の子供たちに太鼓を教え始めることになりました。
初めは立派なものではなく、タイヤを打って練習しているだけでしたが、「子どもたちが諦めず5年練習を続けたら太鼓を買おう」という約束の元、5年目に借金をして太鼓を購入。練習に来ていた子どもたちは誰一人辞めませんでした。
そして1987年楽器の原点である太鼓と舞踊のドッキングを考案。
既成の太鼓チームでは飽きたらず、自身の手で和太鼓集団『天鼓』(現・OSAKA打打打団天鼓)結成!
『天鼓』には天まで届けというメッセージが込められており、“大阪から世界へ!”というOSAKA打打打団天鼓の原点です。
初め模索中だった打打打団も、今では37都市で公演を経験し、2カ月半のヨーロッパツアーを開くまでになりました。
和太鼓のプロという認識は、日本でも世界でもまた認知されていません。
ピアノやバイオリンがプロであるのと同じく、太鼓もプロの仕事であっていいと思います。
日本の伝統芸能を生かしながらその独自の手法で、能でもない、歌舞伎でもない新しい日本の舞踊を展開していきます。
 
そして今 日本を感じられる そんな踊り
毎日生きていることが、楽しくて仕方ないです。まだまだ出会っていない自分と出会い、自分を照らすものに出会い、踊りでもってかっこいいと言われるアートの分野を作りたい。
踊りには、様々なスタイルがあっていい。
でも僕が目指すのはどこかに日本を感じられる、そんな踊りです。
僕が好きな言葉の一つに、岡本太郎さんの「芸術爆発」というものがあります。自分が“こうなのかな?”と日々考えている小さな爆発が積み重なることで大きな爆発になるのだと。
自分の踊りは想いの爆発。「踊りが日本を強くするし、世界を変える!!」と思っています!
 
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